白浜町・マップ33:富田の津波警告板 見守 築Y
 富田の津波警告板

宝永地震(1707年)の被害状況、津波襲来時の避難方法を書き記したものです。高瀬村(現 白浜町富田)の村民が津波体験を草堂寺の和尚に依頼して書いてもらい飛鳥神社に奉納したものです。明治42年(1909年)の神社合祀の際に日神社に移管され、その後、富田区で保管されています。
位置:https://goo.gl/maps/czjpf9q5EwTkRk4QA
 ジオサイト分類

 要約文を添付します
富田区
白浜町教育委員会·白浜町文化財保護審議会
要約文

宝永四(一七〇七)年丁亥夏六月大きさ一寸から一寸余の害虫が無数に発生して稲を喰い荒らし、農民は大変憂慮したが、翌月になると退散した。同年冬十月四日(陽暦十月二十八日)午の刻(正午頃)大地震が起こり、ゆれること一時間ばかり、大地山河破裂し民屋人家が倒壊破損した。その物凄さは天柱が折れ地軸がくだけるようで、老少男女は天地が傾覆するかと思い、精神が迷乱して死生を知る者は一人も無い。そのような時に海上にわかに鳴りどよめいて白浪が天をつく勢いで山を崩し地をうがった。
このような時に人々は地震津波の襲来を聞いて驚き騒ぎ、気も魂も身にそわず、はだしで直に小倉山や飛鳥山に逃げ上り身命を全うし、あるいは途中で大波にただよい流され半死半生で山に着き、幸いにして死を免れる者、あるいは家財に心を寄せ家を出ることおくれ濁浪に溺れ没する者百数十人を出した。富田のうち、高瀬、芝、伊勢谷、溝端、高井、吉田、中村、西野(才野)は一軒も残らず流出してたちまちにして野原となった。鳴呼、前業のためであるのか、それともまた天運のためか、天災とはいいながら前代未聞の珍事である。後代もし大地震があったら必ず津波高潮が来襲するものと知り、早く覚悟して油断してはならない。後人の警めとするため地震津波の状況を記しておくものである。
宝永四年十月記し了る也。
右飛鳥宮の裡に納め置く。毎歳祭礼の節中見聞すべし。

CGI-design